男一匹、夢に賭ける にっぽん豪商列伝

角倉了以〜この者、徒者にあらず

またまた難工事の始まりってわけね。了以さん、大変だぁ〜。

でも、了以も今までの失敗で学んだんだろうね。鴨川のすべてを無理に開削する必要はない。舟が通れるところだけ通して、工事が難しい区間は新たに水路を作ればいい。つまり「人工運河」という発想がここで芽生えるんだ。

それが高瀬川につながっていくのね。

そう。まずは鳥羽から五条まで鴨川を遡る水路を作って、これを三条まで延長する。これで、一応鴨川に舟を通すことができる。三条から大坂まで直通のルートができるわけだ。しかし、ここで満足しないのが了以の凄いところだ。扱いにくい鴨川には手を付けず、川の水を引いて長距離の運河を掘った方がむしろスムーズだ。しかも、この方法なら秀吉の築城以来急激に経済発展した伏見を中継港として、各地の物資を京都の中心部まで運ぶことができる。

当時としては画期的な発想よね。

工事は慶長16(1611)年から3期に分けて計画されたんだけど、全体像としては二条に樋口、つまり鴨川からの取水口を設けて水を導き、九条で鴨川を横切り、伏見で淀川に接するという大構想。今までみたいに既存の河川を開削するわけじゃないからね。まずは土地の買収から始めた。

うわぁ。ますますお金がかかっちゃうじゃない。また自腹?

そう。総工費7万5,000両、今のお金に換算すると150億円もかかったらしい。しかしそこは商売人、しっかり料金を徴収した。高瀬川の通行料は幕府納入金1貫文、舟の維持費250文、角倉手間賃1貫250文となっていて、1回の船賃が合計2貫500文。当時の通行量は1日160隻余りというから、角倉の取り分は年間1万両を超えたと推測できる。もっとも、了以自身は工事が完了した慶長19(1614)年には亡くなっているから、この恩恵にあずかったのは彼の子孫たちなんだけど。

でも、角倉さんって、三井さんや鴻池さんみたいに今でも大金持ちってわけじゃないのね。

うん。それが利権商売の限界でもある。水運は大正時代以降、陸路や鉄道の発達と共に廃れてしまう。でも、そこに至るまで高瀬川は全長10km、川幅8m、舟入9箇所を誇り、大坂から伏見まで三十石船で運ばれた物資を、伏見で高瀬舟に積み替え、京の中心まで運ぶという物流の大革命を実現したわけだ。

舟を曳くという発想

なるほど。高瀬川のおかげで京都に出入りする物資が飛躍的に増えたってことね。


その通り。京都経済が一躍活性化したわけ。江戸時代の京都って、江戸に比べてあまり華やかなイメージがないけど、実は元禄時代の少し前くらいまではまだまだ文化・経済・工業などあらゆる面で日本の中心だった。

でも、実際にはどんな風に物を運んだの? それぞれに船頭さんがいて高瀬舟を漕いでたってこと?

いいところに気がついたね。京都は北側が山だから鴨川は北から南の傾斜に沿って流れる。だから、二条で取水した流れも、やっぱり南、つまり伏見方向に流れるわけだ。

っていうことは、伏見から荷物を運ぼうと思ったら、逆方向に漕がなきゃいけないってことでしょ。

そうなんだ。だから実際に船頭さんが舵を取るのは下りの時だけ。登りの場合は漕ぐわけにいかないから、舟に綱をつけて陸上から曳いて運んだわけ。これを「曳き舟」って言うんだけど、舟は1隻ずつ運んだわけじゃなくて、一度に15、6隻が連結されて運ばれたんだ。これを曳く「曳き子」はおおよそ1隻に1人。だいたい5人が先頭になって20m前後の綱をたるまないようにうまくバランスを取りながら曳いたんだね。「ホーイ、ホーイ」と掛け声をかけながら曳いたから、近隣の人には「ホイシの船頭さん」なんて呼ばれて、ひとつの風物詩になっていたらしい。

でも、川の水量って結構増えたり減ったりするでしょ。

うん。だから水量によって一度に運ぶ量も変えた。高瀬舟っていうのはだいたい全長11mあまり、幅は2mほどで満杯に積んで15石(2.5トン)ぐらい。冬は夏の120%ぐらい、下りの舟は登りの50%ぐらいというように、川の状況に応じて貨物量を船番所が指示した。たかに浅瀬で舟が引っかかることもあるけど、板で流れをせき止めて小さなダムを作って対処した。

よく考えているのね。じゃあ、一年中休まずに運んだの?


雨や雪では休まない。水が枯れたらどうしようもないから運休したけど、夜明けと共に出発して、朝8時か9時ごろには七条付近まで登って、昼頃までにはすべての荷を降ろし終わっていた。下りの舟は曳き子を乗せて1隻ずつ、荷も軽いし、流れに乗って船頭さんが操るから、早い時には午後3時頃には伏見に戻っていたらしい。

でも、高瀬川ってたくさん橋がかかっているじゃない。邪魔にならなかったのかな。

もちろん今の高瀬川は舟は通れない。水深も今は10cmくらいだけど当時は30cm以上あったし、川幅も今より1m以上広かった。橋も舟が通行しやすいように高く作ったし、何より違うのは、今の木屋町辺りでは川岸ぎりぎりまで建物が建っているけど、昔は両側に道がないと曳き舟ができないからね。全く違う風景だったと思ったほうがいい。
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