男一匹、夢に賭ける にっぽん豪商列伝

角倉了以〜この者、徒者にあらず

ちょっとひどくない? 今で言う公共工事なのに、国が一銭も出さないなんて。

そのとおり。でもね、了以には計算があった。後に幕府の許可を得て通行料を徴収するんだ。具体的には最も遠い殿田から嵯峨までで米8升。うち4升6合が船主で、3升4合が角倉の収入だ。一流の舟夫、つまり船頭を雇って舟を確保して、渡月橋を下った辺りに役宅を設けて徴収したらしい。今で言う「高速料金」みたいなものだね。原価の回収までは時間がかかるけど、その後はボロ儲けだ。

なるほど〜、頭いいのね。

ただし、この工事は了以にとっても命がけの大工事だった。だいたい角倉家には土木工事の専門家なんかがいた形跡がないからね。例えいたとしても、当時の日本の技術力ではこんな難工事は不可能に近い。

でも、結局はうまくいったんでしょ。


そこがワタシを悩ませるわけよ。角倉に関する第一の謎だな。了以が晩年に過ごした嵐山の大悲閣千光寺には林羅山が記したとされる角倉父子の業績碑があるんだけど、それによると「水路を阻む大きな岩は轆轤(ろくろ)で挽き、あるいは火薬で爆発させ、水中にあるものはその上に櫓を組んで鉄棒の鋭く大なるものを引き上げ、落下させて砕いた。また水路の広く浅い場所は石を入れ、水路をせばめ水深を増やし、懸爆(けんばく)を成す所は上流の河床を掘り平流にする」ってなわけで、工事内容は驚くほど近代的なんだ。

いろんな国と交易していたから、海外から技術者を呼んだんじゃないの?

それも不可能ではないけど、そんな記録は一切ないし、むしろ了以が先頭に立って現場を指揮したという記述が残っている。

ゲッ、それじゃあ素人の了以さんが全部仕切ったっていうこと?

おそらく角倉家では父の代から豊富な技術書の類を海外から持ち帰っていたんじゃないかと思う。だからそこで知識を得ることはできたんだろうね。しかし、実践となるとそう簡単にはいかない。だから了以が先頭に立ってなんでも実践してみる必要があったんじゃないかな。発破(はっぱ)を使うようなかなり危険なことでも、とにかくチャレンジする。それで成功させて、作業にあたった人たちを鼓舞した、そんな感じかな。あくまで想像だけど。

それが事実なら、了以さんって本物のベンチャー起業家なんだ。

京都だからベンチャーズってか?「苦しめないで〜 ああ責めないで♪」

……(無言)。


すいません。もうやめます。了以はこの工事を慶長11(1606)年3月に始めて、半年後の8月に終わらせている。了以53歳の時だ。当時としては決して冒険する歳じゃないし、角倉家の財力を考えると、わざわざ危険を冒す必要などなかったはず。だから、何が了以の心を突き動かしたのか、それが第二の謎だね。

通行料目当てってこともないだろうし…。

そうとも言い切れないよ。この開墾で幕府の信頼を得た了以は、翌年幕府の命令で駿河の富士川開削にも成功、続いて天竜川にもチャレンジするんだけど、これには失敗。まぁ、天竜川が手の付けられないほどの暴れ川だったこともあるけど、やっぱり幕府の請負は商売としてあまり旨味がなかったんじゃないかと思う。

やっぱり豪商って呼ばれる人はみんなしたたかなのね。

だから、どちらかというと地元でもあり、幕府にコントロールされずに物流で利益が確保できる京都にこだわったんじゃないかな。ちょうど慶長14(1609)年には方広寺大仏殿の再興工事が始まったから、大量の材木や資材を川から運ぶ必要があった。そこで了以は、鴨(賀茂)川の開墾に乗り出す。

あら、鴨川って今見るとすごく穏やかな川って感じがするけど…。デートスポットにもなってるし。

平安時代に院政を敷いた当時の最高権力者・白河法皇が「鴨川の水、双六の賽、山法師」だけは自分の意のままにならないと言ったぐらい、鴨川は氾濫を繰り返し、その度に多くの犠牲者を出していたんだ。だから当時の人はだれも鴨川の治水なんか信じなかったし、京の街中を舟が往来するなんて考えもしなかった。
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