男一匹、夢に賭ける にっぽん豪商列伝

角倉了以〜この者、徒者にあらず

本当だ〜読めない。地図を見て下さいって言うしかないわね。

慶長8年冬に角倉船は長崎から出帆して東京(トンキン)に到着、翌年の6月に帰港している。この時には、了以の弟、医者の宗恂も乗船している。その後、角倉船は慶長9年から16年までの間、ほぼ1年に1回安南に向かっている。このうち慶長14年の航海で一度だけ難破しているけど、他は無事だった。結局、角倉船は江戸幕府が鎖国するまで計16回も渡航しているんだ。そしてそのほとんどを息子の素庵が仕切っている。

あら、了以さんは何かで忙しかったの?

他にやらなくちゃならないことがあったんだよ。それが角倉父子の挑戦第二弾だ。それを話す前に、ちょっと興味深い話をしよう。儒学を学んでいた素庵は、師匠である儒学者の藤原惺窩(ふじわら・せいか)に依頼して、角倉家の「船中規約」を作っているんだ。5箇条あるんだけど、だいたいの意味は①自分だけ利益を求めてはならない。利益を共にすれば、小利でも大利につながる②異国にあっても人間の道理は同じ。異国の風習に従い、国の恥となるな③乗組員は艱難(かんなん)を同じくし、助け合わなければならない。自分だけ助かろうとは思うな④何より恐ろしいのは人の欲である。酒色に溺れず、共に正し、戒めなければならないーーといったところかな。

へぇ〜。すごくいいことが書いてあるのね。今でも十分通用する話じゃないですか。

そう。角倉父子には一貫して「商道(あきないどう)」のようなものがあったと思う。信頼や誠実の意味するところはどこの国でも同じ。だからアジアの各国でも信頼された。これは当時の商人たちの優れた国際感覚を証明しているわけだけど、何よりも角倉父子の生き方というか、生きる姿勢だったとも言えるんじゃないかな。

其の参 第二の挑戦

それで、角倉父子の挑戦第二弾って何なのよ?

まぁ、一言で言うなら治水、川の開墾ですよ。当時、物を運ぶ方法としては陸路よりも水路が一般的。だから、道を作るということと川を拓くということと同じ意味だ。まず最初に了以が目をつけたのが地元の保津(ほず)川と大堰(おおい)川ね。ここは上流の川幅が狭くて流れも急だったから、舟が通れなかった。だから、丹波と山城間の物流がすごく不便だったわけ。

でも、どうして急にそんなことを思いついたのかしら?

うん。それには伏線があった。交易品の調達かなんかで、了以が倉敷に行ったことがあるんだ。で、その時暇を見つけて和気(わけ)川で舟遊びと洒落こんだ。そこで、偶然に底の浅い舟が通るのを見たんだね。これを高瀬舟というんだけど、これが発想の原点になるわけ。

底の浅い舟って、何か便利なものなの?

浅瀬でも船底が引っかからないから、座礁しにくい。海のように波があるところでは安定性の面で問題があるけど、川や湖には最適。岩の多い急流でも使えるんだ。だから高瀬舟というよりは、浅瀬でも航行できるってことで、浅瀬舟とでも言ったほうが、現代人にはわかりやすいかもね。

へぇ〜。じゃあ、その浅瀬舟を京都で作って走らせれば、すべてオッケーじゃないですか。

本当にキミはお気楽極楽だよね。いくら高速で走れる車があったって、道路がデコボコで急カーブだらけだったら意味ないじゃないか。保津川も大堰川も、現代の舗装道路のように通行しやすくする必要があったんだ。

え〜! じゃあ、川底を平らにしたり、流れをまっすぐに直したりしたわけ?

現代のように完全な治水工事はできないけど、まぁ、そういうことだね。まず了以は筏師(いかだし)を雇って川を遡り、綿密な調査を始めた。その後おおかたの構想が出来上がると、息子の与一(素庵)を江戸に向かわせ、幕府に開墾計画を献策したんだね。

幕府はどう思ったのかな。お金がかかるから嫌だったんじゃないの?

いい読みだね。幕府は「おおいに結構」と許可は与えたけど、お金は出さなかった。だから、工事はすべて角倉持ち。
<5ページ目に続く>