男一匹、夢に賭ける にっぽん豪商列伝

角倉了以〜この者、徒者にあらず

そのころ中国に行くのに、どれくらい時間がかかったの?

博多を出て約1カ月で寧波(にんぽー)に着く。その後宗桂は北京に移動して2カ月滞在するんだけど、その間遣明副使の代理を務めたり、医療技術が「神察なり」なんて褒められたもんだから、その後6年後と8年後に、今度は正使として3度明に渡るんだな。

なんか、お父さんの話だけで十分、偉い人って感じじゃないですか。

確かに、前説にしては立派過ぎるよね。でも、この宗桂のグローバル志向と、医学的なものの考え方、それに明から大量に持ち帰ったであろう漢方薬や学術書が、その後の角倉家に大きな影響を与えるんだ。

じゃあ、息子の了以さんも医学を志したとか…。

いや、医者になったのは了以の弟、宗恂(そうじゅん)の方で、この人は悲劇の関白・豊臣秀次に仕えた後、天皇家の侍医にまでなった人だ。了以の方は土倉業を継いだ。話は前後するけど、了以が生まれたのは宗桂が明から帰国して5年後の天文23(1554)年。16歳の時に従兄弟の娘と結婚して、翌年には息子の与一が生まれている。

うわっ、はやっ。しかも親戚との結婚じゃないですか。

当時としては別に珍しいことではない。で、この与一というのが後の角倉素庵(そあん)だ。父・了以の影となり日向となり、ずっと二人三脚で事業を展開していった、いわば了以の“分身”のような存在だな。

年齢が17歳しか違わないってことは、親子っていうより兄弟みたいね。

そうだね。素庵が晩年に作らせた2人の彫刻を見ればわかるけど、仁王様のような了以に比べて、素庵の方はまるで菩薩像だ。意図的にそんな風貌にしたのかどうかはわからないけど、“剛”の了以と“柔”の素庵、この対照的な組み合わせが角倉家成功の秘訣だったとも考えられるんだ。


ふ〜ん。でも、角倉家って豪商だったんでしょ。質屋さんってそんなに儲かるものなの?

もともと了以の祖父・宗忠は若狭国、今の福井県から京に送られる生糸の流通組織を牛耳っていて、天文年間(1532〜1555)には、西陣の織物業者が作った帯の独占販売組織も管理していた。宗忠は、独占権の見返りとして納める税金にも責任を負っていたから、実質的には代官のような役目だった。

ははぁ、組織のドンでいろんな利権も握っていたのね。

だから息子の代には当時最盛期を迎えつつあった織物生産にも深く関わっていたはず。つまり、医療、金融、織物生産・流通を通じて一族で角倉コンツェルンのようなものを作っていたんだな。この多角経営によって、彫金の後藤家、織物の茶屋家と並んで角倉家は“京の三大長者”と呼ばれていた。

それじゃあ、了以さんは生まれた時から大金持ちだったわけね。

そうなんだけど、それはまだ序の口。角倉家が本当に飛躍するのはそれ以降の慶長年間(1596〜1615)の話なんだ。

朱印船で世界へ

関が原の合戦が1600年っていうのは憶えてるから、慶長年間っていうのは安土桃山時代から江戸時代初頭までってことよね。確かに家康さんの時代だわ。

その通り。信長の時代に、種子島に鉄砲が伝わってそれまでの合戦スタイルが大きく変わった。で、同時にキリスト教も入ってきた。これはどういうことかと言えば、ヨーロッパ「大航海時代」の余波が、アジア地域にも及んできたということ。この時代にポルトガルやスペインの「南蛮船」が日本に中国産の質のいい生糸を持ち込んだり、日本産の銀を持ち帰ったりしたわけ。

そういえば、石見銀山って世界遺産でしょ。その頃日本で銀がたくさん採れたの?

当時、日本の銀は世界の産出量の約3分の1を占めていたんだ。日本は金の埋蔵量にしても銀の埋蔵量にしても、まさに“宝の山”だったわけ。
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