其の壱 質屋一族、世界を行く
う〜ん、う〜ん…。
ちょっとぉ、何うなってるんですか? 気味悪い。
気味悪いとかキミに言われたくないよ。ワタシはねぇ、今悩んでるの。この高瀬川に関する資料に書いてある角倉了以(すみのくら・りょうい)のユニークな発想がどこから生まれたのかということでね。だいたい悩むのはそ〜ゆ〜知的興味からだよ。キミみたいに頭が悪かったら悩んだりしないの。
へぇ〜、角倉って書いて“すみのくら”って読むんだ。ワタシが頭悪いのは認めますけど、蔵三さんみたいにハゲてはいませんから。
何がハゲだよ。角倉だって立派なツルッパゲだぞ。
ギャハハ。本当だ。で、この人は何をした人なの?
一言で言えば、徳川家康とほぼ同じ時代に活躍した京都の豪商だな。業績として最も有名なのが、高瀬川という人工運河を造ったこと。それ以前にも保津川の開削を成功させたりして、琵琶湖疏水の設計者、田辺朔郎と共に「水運の父」なんて言われてる。
多角経営のルーツ
高瀬川って今でもあるわよね。春には桜も咲くし、夜なんかもライトアップされて結構いい感じ。
森鴎外の小説でも有名だよね。でも、高瀬川を始めとする了以のデベロッパー的部分は、彼の業績の一部にすぎない。
あら、一部っていうことは、他に何があるの?
うん。その話をするためには、角倉の本姓である吉田家から説明しないとね。角倉というのは、了以がもともと土倉業という今で言う質屋さんのような商売をやっていて、その店が嵯峨の方、つまり京都の角っこにあったということで角倉、或いは嵯峨の角倉という地名から取ったという説もある。要するに、俗称というか屋号がそのまま姓になったというわけ。で、了以の祖父に当たる吉田宗忠は室町幕府に医者として仕えていたんだけど、その頃から土倉業も兼業していたらしい。
医者なのにお金も貸してたの?
そう。この多角経営というのが角倉の伝統なんだな。宗忠には息子が3人いたんだけど、長男と三男が早く亡くなって、土倉業は長男の息子が継ぎ、次男は医業を継いで天龍寺の僧になった。これが了以の父である吉田宗桂。
こんどは医者なのにお坊さん?
そんなに突っ込むなよ。室町時代の話だぜ。宗桂は天龍寺に入ったことが幸運だったんだな。もともと彼は明に渡って医学を極めることが夢だった。それがうまい具合に、天文8(1539)年の室町幕府の遣明船は、天龍寺の策彦周良(さくげん・しゅうりょう)が副使で、実質的な責任者だったから、そのコネでまんまと明に留学することができた。
へぇ〜、その頃から医学留学なんてあったんだ。
今みたいに「就職がないから留学する」なんて甘いもんじゃないよ。この頃の航海は命懸けだからね。派遣団は船3艘、総勢450人あまりの大規模なものだった。ほとんどは貿易商とその関係者だったけどね。
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