男一匹、夢に賭ける にっぽん豪商列伝

紀伊国屋文左衛門〜一世一代の大バクチ

「みかん船」って言われても、ワタシは全然聞いたことないけど。

これだからイヤだねぇ。若いヤツは。三波春夫の名調子を知らんのか。昭和41年(1966)には紅白のトリで歌ってるんだぞ。

あっ、ウチのおじいちゃんがお風呂で歌ってたヤツかなぁ。「雪をけたててサク、サク、サク、サク、大石どのぉ〜」っていうの。変な歌だったなぁ。

それは「元禄名槍譜 俵星玄蕃」だろ。まぁ、忠臣蔵だから時代は一緒だけど。つべこべ言わずに聞いてみなさいよ。迫力あるぞ。「豪商一代 紀伊国屋文左衛門」紅白バージョンだ。


100万両のみかん船が江戸に向かったっていうことだけはわかったけど、結局どういう話かはやっぱりわからないんですけど。でも、歌は凄かったわ。

そう言うだろうと思ったよ。仕方がないから「みかん船」のストーリーをかいつまんで話そう。紀文が生まれたのは、最も有力な説では現在の和歌山県有田郡湯浅町。父の五十嵐文三は平家残党の末裔と言われている。幼名は文吉。生年は寛文9年(1669)とされているけど、これは戯作者の山東京伝が「紀文は享保19年(1730)、66歳で死んだ」と書き残しているのを逆算して推定したもので、確たる資料はない。

そういえば和歌山の有田ってみかんの産地よね。以前行ったことあるけど、一面みかん畑だった記憶があるわ。

紀州は梅も有名だよね。だから梅林も多い。元服して文平と名を改めた紀文は故郷を捨て、江戸に登る。通説ではその後苦労を重ね、生来の商才が開花して、八丁堀に材木店を構えたのが貞享年間(1684〜1688)というんだけど、そうすると紀文はまだ15歳から19歳ということになる。

それはちょっと若すぎるでしょ。いくらなんでも。

だから、八丁堀に店を構えたのは2代目の紀文で、「みかん船」の主役は初代だという説もある。まぁ、いずれにしても確たる証拠はないので、「みかん船」が事実だとしても、いつの話なのかは正直、特定できないんだ。ただ、話の内容から推測すれば、この紀文はまだ20歳前後の若者で、まだ材木商としては大成していないと見るべきだろうね。

それはそうと、どうして紀文さんは江戸で材木商になろうって思ったのかな。

その辺も資料がないから、はっきりとはわからないけど、紀州というのは別名「木の国」とも言う。雨が多くて森林が生育しやすい土壌なんだ。熊野三山を始めとして海岸線に山が迫る独特の地形だから、上質のヒノキなんかを伐採して海から運ぶのに適しているし、京都や伊勢を始めとする周辺の寺社に木材を供給する役割も担っていた。

ははぁ、地場産業が林業だったわけね。だから必然的に江戸に来ても林業関係の仕事に就いたっていうことか。

当時は封建社会だから、自由に職業が選べたわけじゃない。だから紀文も紀州の出身者を頼って材木屋の仕事を手伝うところから始めたのかもしれないね。でも、若くして捨ててきた故郷のことが頭から離れることはなかったんじゃないかな。実はそのことが「みかん船」の動機になるんだ。

確かに、20歳前後って、年頃からして一番故郷が恋しくなったりするものね。

ある日、紀文が故郷の話を伝え聞くんだな。「今年は有田みかんが大豊作。11月8日の鞴(ふいご)の祭りには、江戸でたくさんのみかんが配られる。それに間に合わせようと籠詰めを急いだのだが、ここのところ南風が吹いて海が時化ているために船が出せない。このままでは最大の消費地である江戸にみかんを出荷できず、有田は今死活問題になっている」

必要な時に必要なものを

鞴祭りって何? どうしてみかんが必要なの?

鍛冶屋とか刀匠のように鞴を使う職人たちが、火の神様に安全を祈願する行事で、別名「たたら祭」とも言うんだ。起源は15世紀の中頃に、堺の鉄砲鍛冶が伏見稲荷の御火焚の日(11月8日)にお礼を鍛冶場に祀るという風習が、稲荷信仰と一体化して全国に広まったということだ。その後は新穀、新酒、みかん、海の幸なんかを神に捧げた後、そのお下がりを参加者や近習に配るようになった。

それでみんなにみかんを分けてあげたっていうことか。


みかんを供えるのは陰陽五行の思想から来ているらしいけど、理由はどうあれ子供が喜ぶから、高価ではあったけど、職人達は近所の子供にあげるために大量に仕入れたんだな。
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