続・虚構の中の真実 時代劇のヒーローたち

荒木又右衛門〜決闘のリアリズム

仇討ちの大義

いいところで登場したわね。ちょっと格好よすぎない?

確かに。でも、又右衛門にもちょっと格好悪い場面があるんだ。その話はまたあとで。又右衛門の登場で半弓を射ていた草履取りも槍を持った小者もビビって逃げ出した。こうなると3対1で、半兵衛は圧倒的に不利だ。それでも又右衛門と初めて対峙した半兵衛は、不得手な刀で身構える。

あっという間に形勢逆転したのね。


その時だ。深手を負ってほとんど虫の息と思われていた武右衛門が、師の激励に息を吹き返し、執念で体ごと突進。その刀が半兵衛の体を貫いた。その後、孫右衛門が斬ったのか又右衛門が斬ったのかはわからないけど、半兵衛は完全に戦闘不能になった。それを見た他の小者達は戦意喪失、あっという間に逃げ去った。そうなると、残るは又五郎だけだ。

又五郎さんは数馬さんと闘っていたんでしょ。又右衛門さんが行けばそこですぐ終わりそうね。

ところが又右衛門は手を出さない。本来、これは上意討ちであって仇討ちとは言えないのだが、仇討ちと認められれば合法行為になるから、その方がいいには違いない。そもそも仇討ちには主君の免状や奉行所への届け出が必要なんだけど、又右衛門チームは皆主君を持たない浪人だから、現地の役人から検分を受け、認可される必要がある。だから、仇討の正当性を立証するには、あくまで当事者間で決着を付けさせる必要があったわけ。

なるほど〜。又右衛門さんが手を出せば簡単だけど、それじゃ仇討ちにならないし、仇討ちにならないと、ただの人殺しになっちゃうわけね。

ところが、大坂の役からすでに19年、又五郎も数馬も“戦争を知らない子どもたち”だから、白刃を交えての実戦経験は皆無だ。だから、無闇に生傷が増えるだけで一向に決着が付かない。結局、数馬が又五郎にとどめを刺したのが午後2時頃。2人は延々6時間もの間死闘を演じていたことになる。

どっちが死んでもおかしくない状況だったのね。

又五郎の傷は7箇所で、うち重傷3箇所、数馬は13箇所で、うち重傷4箇所ということだから、数馬の方がダメージは大きかった。それでも本懐を遂げられたのは、やはり又右衛門が場を離れずに見守っていてくれたからだろう。ちなみに、諸説あるけど、この時又右衛門37歳、数馬27歳、武右衛門43歳、孫右衛門38歳。又五郎側は又五郎19歳、甚左衛門51歳、半兵衛25歳。

結局、何人亡くなったの?

津藩藤堂家の検分によれば、死亡は又五郎、甚左衛門。瀕死状態が半兵衛、槍持の三助。重傷が武右衛門、孫右衛門、数馬、清左衛門。槍持喜蔵が軽傷。その後半兵衛、三助、武右衛門が亡くなったから、死者は計5名になる。又右衛門を始め、他の6人は無傷だった。

早すぎる死

ところで、又右衛門さんの格好悪いところって何?

半兵衛を倒した時に油断したのか、半兵衛に仕える小者に木刀か天秤棒か、とにかく棒のようなものでしたたかに腰を打たれたっていう話があるんだ。2度めの攻撃の時、これを刀で受けたら、ポキンと折れちゃった。そこですかさず脇差しを抜いたら、小者は逃げちゃったというんだな。

ははぁ〜、その棒がもし刀や槍だったら、大怪我してたってことよね。

このエピソードの真偽はともかく、藤堂家の家臣に戸波又兵衛と言う剣客がいて「大事にあって折れやすい新刀を使うのは、士道不心得」と、又右衛門を批判したらしい。又右衛門はこれを認め、数馬を伴って戸波流に入門したというんだな。この時の誓詞文が今も残っているから、決闘中に刀が折れたということだけは間違いないようだ。

あはは。仇討ちには成功したんだから、そんな意見は無視しちゃえばいいのに、又右衛門さんって謙虚な人だったのね。

又右衛門、数馬のニュースはあっという間に全国に広まって、武士、町人を問わず賞賛の的になった。特に溜飲を下げたのが大名側で、鳥取に移った池田家も、又右衛門の主君であった松平忠明も「数馬と又右衛門はウチで預かる」と言って聞かない。逆に面目を潰された旗本側は場合によっては報復も辞さずという空気だったから、藤堂家としてはどう処分したらいいか困った挙句、裁定は幕府に一任するということで、それまで2人を客分として預かることにした。

もちろん、すぐに立派な仇討ちということで認められたんでしょ。

それがねぇ、大名VS旗本というデリケートな問題だから、解決を渋ったんだな。結局、鳥取藩の熱意が通じて幕府の移動許可が降りたのが4年後の寛永15(1638)年だ。いろいろ事情はあったにせよ、時間をかけて事件を風化させる必要もあったんだろうね。

とりあえず良かったわよね。孫右衛門さんも一緒だったの?


もちろん、3人揃って鳥取入りした。しかし、そのわずか17日後に、又右衛門急死の報が発表される。病死ということだったけど、一説には毒殺されたとか、旗本側の報復を避けるために死亡説を流布したという話もある。後に数馬も35歳の若さで世を去り、孫右衛門だけが71歳まで生きて天寿を全うした。思えば又右衛門と数馬は、源太夫が殺害された寛永7年から、鍵屋の辻の寛永11年までの4年間に、その人生のすべてを燃やし尽くしたと言ってもいいんじゃないかな。だからその生涯に悔いはなかったと思うよ。
<おわり>