続・虚構の中の真実 時代劇のヒーローたち

荒木又右衛門〜決闘のリアリズム

遅咲きのデビュー

でも、又右衛門さんは江戸時代に凄く有名人だったわけでしょ。だったら、資料なんかもたくさん残っていたんじゃないの?

それがさぁ、後から話が作られすぎちゃったから、意外によくわからないんだよ。長谷川伸もその点では苦労したと思うよ。なかなか良く出来たストーリーだけど、果たしてどこまで信じていいものか…。

例えば、又右衛門さんがどのくらい強かったかっていう話とか…。

鍵屋の辻で有名になる前の又右衛門は、一介の剣客に過ぎなかった。流派も俗説では柳生新陰流と言われているけど、これは又右衛門が伊賀の出身ということから生まれた話であって、それを示す確かな資料はない。もし又右衛門が柳生の門弟であったとすれば、師匠はその頃すでに家康に仕えて江戸にいた宗矩ではなくて三厳(十兵衛)ということになるんだけど、又右衛門は十兵衛より8歳も年上で、十兵衛は当時10歳にも満たないから、ちょっと考えにくい。

柳生新陰流っていうのはワタシでも知ってるけど、そうじゃなかったら、何流?

父から中条流、叔父から天真正伝香取神道流を学んだということだ。両方とも室町時代から続く名門だから、又右衛門に限らず門弟も多かっただろう。神道流では手裏剣なんかも使うから、まぁ、飛び道具でも使わないと36人は倒せないからっていうことで「額に手裏剣」という又右衛門のイメージが作られたのかもね。

流派はそれでいいとして、そもそも、又右衛門さんは何をしていた人なの?

大和郡山藩の剣術師範だ。もっとも、この職を得るまでには紆余曲折があって、ちょっと説明が長くなる。又右衛門は慶長4(1599)年、服部平左衛門の次男として伊賀国服部郷荒木村で生まれた。お父さんの平左衛門は最初、城作りの名人として有名な藤堂高虎に仕えていたんだけど、その後、備前岡山藩の池田忠雄(ただかつ)の家臣になった。

友人関係がアダに

伊賀の服部ってことは、もしかすると又右衛門さんのお父さんは忍者だったかも。

服部氏というのは伊賀国の代表的な一族だから、石を投げれば服部さんに当たるくらいたくさんいたと思うよ。だから服部というから服部半蔵の親戚というわけじゃない。平左衛門が備前岡山藩に仕官する際に、初代・渡辺数馬、つまり仇討ちをする渡辺数馬のお父さんが骨を折ったという話もあって、この二人は親友だったようだね。そんな縁で、又右衛門は初代数馬の娘で二代目数馬の姉・みのと結婚するわけ。

お父さんが数馬さんで息子も数馬さん? アメリカ人みたいに数馬シニアとか数馬ジュニアって呼んだほうがわかりやすいわね。

あはは。確かに。日本では古文書なんかにその区別が無いから歴史家を混乱させるんだよ。で、「遠山の金さん」でも説明したけど、又右衛門は次男だから父親の禄を継ぐことができない。そこで本多政朝の家臣だった服部平兵衛の養子になるんだけど、政朝が姫路藩主になった後、理由はよくわからないけど、養父のもとを離れて故郷の伊賀に帰った。柳生門弟説にこだわるなら、その頃柳生の門を叩いて、若い十兵衛に師事したと考えれば不自然ではないけどね。荒木姓を名乗ったのもその頃じゃないかな。

だけど故郷に帰っても仕事がないんでしょ? 又右衛門さん、困ったでしょうね。

その後、やっと大和郡山藩・松平忠明に剣術師範役として取り立てられるんだけど、無名の浪人が250石の厚遇を得たということは、流派がどうこうということではなく、又右衛門が一流の剣客だったという証だ。で、剣術師範として又右衛門の前任者だったのが、又五郎の叔父・河合甚左衛門で、まさか後に敵同士となろうとは思いもしなかっただろうね。

ってことは、2人は知り合いだったということ?


知り合いどころか気の合う同士、盟友だったという話だ。当然、剣客としても当然お互いの手の内を熟知している。この運命的とも言える皮肉な人間関係が「伊賀越」物語に深い陰影を与えるわけ。

仲のいい友達と殺し合いをしなきゃいけなくなるなんて、残酷な話だけど、凄くドラマチックでもあるわよね。

もし又右衛門のお父さんと数馬のお父さんが親友でなければ、又右衛門の人生は平凡なままで終わったかもしれないし、河合甚左衛門の友人として又五郎側についていたかもしれない。甚左衛門にしても又五郎の叔父でなければ、友人として又右衛門に加勢していたかもしれない。この辺の事情がまさに「事実は小説より奇なり」といったところだな。
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