虚構の中の真実 時代劇のヒーローたち

遠山金四郎〜誰も知らなかった桜吹雪

桜吹雪じゃないの? 女の生首って、ああ、考えただけで気持ち悪い。


これは兜のしころを咥えた猪熊入道の首と両腕で対の絵柄になっていて、鳶人足なんかの間ではポピュラーな刺青だった。でも、それが説明しにくいからか、旗本の子弟にしてはあまりに品がないと思ったのか、講談では「桜吹雪」に変わっている。まぁ、いずれにしても刺青というのが誰かの創作で有ることには変わりないんだけど。

じゃあ、本当は刺青なんかなかったっていうこと?


「景元は若い頃市井で放蕩生活を送っていた。ということは、無頼の徒とも交わりがあったに違いない。であれば、刺青のひとつぐらい入れていたんではないか」という、いわば推測の三段論法だね。遠山と同時代に生きた人が「ワシは見たもんね〜」と一人でも言っていれば、再考の価値もあるけど、景元は北町奉行時代に風俗上好ましくないということで彫り物師を取り締まっているからね。自分に彫り物があったらできない話だよ。

そうか〜。ちょっとガッカリ。刺青もそうだけど、過労死するほど忙しいお奉行様が日中「金さん」になって遊んでる暇なんかないもんねぇ。

そもそも、放蕩生活を送っていたということすら怪しい。景元は22歳の時に堀田家のお嬢様と結婚しているけど、継子ではない上に、刺青入れてるような若者のところに、4200石の名門が娘を嫁がせるわけがない。景元の将来性を買われたとしか思えないんだよね。

やっぱり、若い頃から光るところがあったのかもね。


その読みが当たるんだな。文政7年(1824)に同い年の養父、景善が亡くなる。これで晴れて景元は遠山家の跡継ぎになり、出仕も叶うようになる。父の景晋が隠居して、景元が家督を相続したのは文政12年(1829)、景元32歳の時だ。

其の弐 名奉行の条件

そう考えると、若いときには恵まれない環境にいたけど、我慢して機会を待っていたマジメな青年官僚のイメージが見えてくるわね。

景晋が実子に家督を継がせたくて、早く隠居しなかったとも考えられるね。景元はスタートは遅かったけど、その後の出世は早かった。景晋が勘定奉行になったのは68歳、景元は46歳。父親より22歳も若い。そしてその2年後には北町奉行だ。

48歳で北町奉行って、珍しいことなの?


大岡忠相の41歳という例もあるからね。そう珍しいとは言えないけど、禄高500石で町奉行というのはかなり珍しい。水野忠邦の狙いとして、あまり名門の家柄だと、これから行う過激な改革をやらせにくいと考えたのかもしれないね。水野は同時に、大坂西町奉行から勘定奉行になった52歳の矢部定謙(やべさだのり)を南町奉行に抜擢した。矢部は大坂(大阪)時代から培われた経済政策、飢饉対策への手腕が買われたようだけど、この人は遠山と同じくらい興味深い人なんだ。ある意味では、むしろ遠山よりも名奉行と呼ぶべき人かもしれない。

そんなこと言ってたら、誰が主役かわからなくなっちゃうでしょ。


筋を通すか、全うするか

天保の改革は、天保12年(1841)、大御所として君臨していた前将軍、家斉の死去を契機に始まる。北町の遠山、南町の矢部の役目は、まず第一に綱紀粛正と奢侈禁止という寛政の改革以来のスローガンを復活させ、一般大衆に浸透させることだ。

わかりやすく言うとどういうこと?


不真面目とぜいたくはイカン、もし逆らったら重罪に処すということだな。だから、不真面目な本やぜいたくな着物、見世物、芝居、お祭りなんかは一切禁止。言い換えれば「文化・言論統制」ということであって、庶民のささやかな楽しみを根こそぎ奪うことでもあったんだ。
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