虚構の中の真実 時代劇のヒーローたち

宮本武蔵〜遅れてきた兵法者

どれどれ? あっ、ほんとだ。凄く読みやすい。



これはあくまで個人的な意見だけど、武蔵の理想とするところは、実践を伴った兵学家のようなものだと思う。理論だけでもなく、実践だけでもない、その両方を備えた人物として一家を成すのが夢だったんじゃないかな。そういう意味では、黒田官兵衛や竹中半兵衛のような武将がイメージとしては近いね。でも、残念なことに武蔵を必要とする時代は終わってしまったんだ。

平和な時代になると、そういう人はむしろ危険人物になっちゃうもんね。


だから晩年の武蔵は、平和推進派には煙たがられる一方で、武家の矜持を重んずる一派にとっては、実戦を知る貴重な存在として注目されていくわけだ。合戦や刃傷事件が日常的だった時代を知らない世代にとって、武蔵の醸し出す雰囲気とか体験談は、一種の憧れとして映ったんじゃないかな。

若者が強い大人に憧れるのは今でもよくあることよね。



肖像画なんか見ると、凄い形相してるもんね。一説によれば髪には櫛も入れず、風呂にも入らなかったらしい。


きたな〜い。お風呂に入らなかったら臭うじゃない。



風呂に入らなかったからって、体を洗わなかったというわけではないと思うよ。臭うかどうかは別として、私の中学時代、剣道5段の猛者で居合もやってた担任がこの肖像画を見て言うには「一部の隙もない」そうだ。

え? ワタシにはただ刀を持ったままブラ〜ンと手を下げているだけに見えるけど。

自由人の哲学

わかる人にはわかるんだろうなぁ。で、まぁここで最初の疑問について考えて見よう。武蔵とは何物であったか。


実戦経験豊富な兵法者でノウハウ本を書いて絵も上手かった人。一言で言うなら“マルチな才人”にして“伝説のファイター”ってとこかな。

あはは。だんだんいいところを突いてきたね。ではなぜ武蔵は生涯仕官しなかった、或いは出来なかったのか。


武蔵にふさわしいポジションがなかったんじゃない? それに、こんなアブナイ人がいたら周りの人が困っちゃうでしょ。協調性なんかなさそうだし、緊張感を強いられるし。でも、殿様の立場だったら「仕事なんかしなくてもいいから、伝説のファイターを手元に置いておきたい」なんて思うんじゃないかな。

かなりリアルに迫ってきたね。武蔵があまり人に好かれるタイプではなかったことは、後年の資料から何となくわかるんだけど、小笠原、細川といった名門が晩年の武蔵を迎え入れたということは、それだけ武蔵に実績や名声があったということだ。それに、武蔵が明石の町割り(都市計画)を任されたり、庭の設計をしたという記録もあるから、兵法者としての能力以外にも、多彩な才能が評価されていたとも考えられる。

確かに、絵とか文章だけ見ても、並の才能じゃないことはわかるわね。


だから、小笠原家も細川家も、その才能を見込んで召し抱えようとは思ったのだろうけど、フリーランスとして生きてきた武蔵が宮仕えを嫌って固辞したとも考えられるし、両家とも武蔵を家臣として扱うことで、武蔵の自由を奪うことをはばかったとも考えられる。いすれにしても、武蔵は藩の中にあって自由に振る舞えるという最高の境遇を与えられたわけだ。

そう考えると、殿様も門人たちも、武蔵の話を聞きたくてしょうがなかったんじゃないかな。


『五輪書』はそういったニーズを満たすために書いたとも解釈できるね。それに還暦を迎えて死期を意識し始めたから、自分の考えを残しておきたいと思ったのかもしれないな。でも、残念なのは若いころの数々の決闘について詳細を残さなかったことだ。残していれば、その後の評価が変わっただろうからね。

そういえば、一番有名な巌流島の決闘について蔵三さん、全然触れてないじゃない。真実はどうだったのよ。


当時からも後世になっても、いろんな人がいろんな説を唱えているから、武蔵側と巌流側では日本と韓国の歴史認識ぐらいズレがある。詳しくはWikiなんかに書いてあるからそっちを読んだ方が早いよ。そんなことよりむしろ興味深いのは、一度滅んでしまったかに見えた武蔵の実戦剣法が、幕末になって甦ったという事実だ。日本刀を使っての斬り合いが、武蔵の死後200年以上たってから15年もの間続き、明治の廃刀令と共に消えていった。武蔵のDNAは日本各地で秘かに伝えられていたんだよ。
<おわり>