虚構の中の真実 時代劇のヒーローたち

宮本武蔵(後編)〜遅れてきた兵法者

なるほどねぇ。じゃあ、武蔵も本当はそんなに刀を使わなかったってこと?


武蔵が生きたのは安土桃山時代から江戸初期までだから、まだまだ血生臭い雰囲気が残っていた時代だ。幕府も諸大名も基本的に私闘は禁じていたけど、武士同士のトラブルに関しては双方で解決するのが原則。だから、立会人を立てた上での果たし合いや仇討ちは認められるケースもあった。とはいえ、原則的にはどんな理由があっても殺傷事件になれば刑事罰の対象になるからね。最終的に幕府が裁定する際は“喧嘩両成敗”が基本方針なんだけど、この件は「赤穂浪士」の項で詳しく話すとしよう。

じゃあ、武蔵も決闘する度に立会人をつけたり、誰かを斬る度に裁判にかけられたりしてたのかな?


そこが問題なんだけど、関ヶ原以降の武蔵は特に主君を持たない牢人生活を送っていたと考えられる。従って江戸初期に藩を離脱したのか、藩に籍を置いたまま諸国を流浪したのか、或いは“吉川武蔵”のように本当は百姓上がりだったのか、そのへんは全くわからないけど、現代風に言えば国籍が無い人だったわけだ。だから、許可を得る相手もいないし、処罰の対象にならなかったとも考えられる。

そう考えたらコワイ人よね〜。人を殺しても無罪放免ってこと?



武士にかぎらず、刀を持った者同士の果たし合いとか突発的な喧嘩というのは戦国時代には日常茶飯時だったと思うよ。だから、牢人同士での私闘があっても特に珍しいことではない。但し、武蔵もどこかの藩の家臣とか、柳生家のような将軍家指南役の門下と斬り合えば、当然処罰の対象になる。

っていうことは、そういう人たちとは果たし合いをしなかったということになるわね。


まぁ、そういうことだ。だから、武蔵の対戦相手として挙げられる武芸者に有名人はいない。失礼な話だけど佐々木巌流(小次郎)というのも実際にはどこの馬の骨かわからないし、足利将軍家の剣術師範だった吉岡一門にしても、初代は有名だけど武蔵と対戦したと言われる四代目の直綱は大坂の陣での敗戦後、染物屋になったという記述がある程度だ。

その吉岡さんと武蔵は結局、どっちが勝ったの?



福住道祐の『吉岡伝』によれば、武蔵が大流血したから直綱の勝ち、或いは引き分けという判定で、武蔵の養子で小笠原家の家老になった宮本伊織が建立した小倉碑文によれば。吉岡清十郎なる人物の負けで、瀕死の重傷を負った清十郎は引退。

言ってることがあべこべじゃない。名前も違うし、結構いい加減なのね〜。


でもねぇ、だからといって武蔵が名だたる剣客と戦っていないという証拠にはならない。負けというのは武門の恥になるから公表せずに隠匿するか、後世になって自分たちの都合のいいように書きなおすことが当たり前のように行われていたからね。宮本伊織の小倉碑文だって、あくまで武蔵の身内が残した“武蔵賛歌”であって、どこまでが真実なのかまるでわからない。

そうかぁ〜。真実を知るにはタイムマシンに乗って現場を見るか、当事者に取材する以外ないってことね。

五輪書を読み解く

ただ、注目すべきは、武蔵自身の証言である『五輪書』には、有馬、秋山という初戦の相手以外、全く実名が記されていないことだ。武蔵は有名な吉岡を倒したとか、佐々木小次郎に勝ったとか、そんなことは一言も書き残していないんだ。だから、武蔵は実績が無い分他の剣豪に実力で劣るとか、単なる宣伝上手だとかいう後世の批判は根拠に乏しいような気がする。

確かに、確たる証拠がない以上どっちとも言えないもんねぇ。



しかし、序文に書かれている「二十一歳にして都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也」という一文は、一見、強さを誇示したプチ自慢にも見える。

若い頃は相当やんちゃだったのねぇ。



でもねぇ、次の文を読むと単なる自慢ではないことがわかるんだ。「三十を越て跡をおもひミるに、兵法至極してかつにハあらず。をのづから道の器用ありて天理をはなれざる故か、又ハ、他流の兵法不足なる所にや。其後、猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見れバ、をのづから兵法の道に逢事、我五十歳の比也」。
<5ページ目に続く>