其の参 武蔵とは?
この連載を長い間サボっているうちに、BS歴史館で取り上げるわ、キムタクのドラマで盛り上がるわって、世間じゃちょっとした武蔵ブームじゃないですか。
まぁBSの方はどうでもいい内容だ。武蔵を知らない人は“目からウロコ”ってところかもしれないけど、良く知っている人間にとっては、以前から言われているいろんな説を取り上げただけで、特に目新しい事実はない。しかし、ドラマねぇ、あれはイカンなぁ。
イカンって、蔵三さん、まだ観てないでしょ。この原稿がアップされるのは放送前なんだから。
ドラマの内容はいいんだよ。フィクションなんだから。しかしねぇ、宣伝で「実在の人物」っていうのを強調するのはどうかと思うね。これでまた“吉川武蔵”が本当の武蔵だと誤解する人が出てくるだろ。アレはイカン。
でも、予告編見るとやっぱりキムタクって格好いいわ〜。
キムタクがどうのこうのって、そんなこたぁど〜でもいいよ。それより、前回も言ったように、問題は真実の武蔵像だ。武蔵とはいったい何物で、何をした人物なのかということだ。そこでまず聞こう。宮本武蔵の職業は何だ?
職業って、お侍でしょ。そうじゃなければ剣豪とか、剣の達人とか…
お侍っていったって、上は将軍から下は浪人までいろいろいるだろ。それに剣豪とか剣の達人なんて職業名はないよ。
じゃあ、何だろ。剣術の先生? でも、絵とかも描いたんでしょ。ってことは画家とか?
剣道の先生というのはまぁまぁ正しい。画家というのもね。但し、武蔵の場合、幕府や大名の家臣になったとか、何らかの公職に就いたという記録はないんだ。剣術を極めれば大名に仕官して指南役になるのが一般的だけど、武蔵に関しては記録がない。晩年、熊本の細川家に招かれて厚遇されているけど、あくまで“客分”の扱いだった。
何か問題があったんじゃないの? 素行不良とか?
細川家の7人扶持18石に合力米300石という扱いは決して軽い扱いではない。屋敷を与えられた上に鷹狩まで許されているからね。ちなみに絵を描いたのはこの頃で、あくまで教養人として、武士の嗜みとして描いたのであって、狩野派のような職業画家ではない。剣術の方は正式な指南役ではなかったけど、門人はたくさんいたらしい。
そう考えると、ますます謎ねぇ。どうして正式に仕官しなかったのかしら?
謎の戦績
武蔵という人物を解く鍵は、実はそこにあるんじゃないかな。それにはまず、武蔵の生い立ちと、彼が生きた時代を考えないとね。まず生い立ちから見てみよう。『五輪書』に書かれたプロフィルには新当流の有馬喜兵衛という人物と決闘して勝ったのが13歳、但馬国の秋山某に勝ったのが16歳とある。
数え年で13歳って、まだ小学生の年齢でしょ。恐ろしく早いデビューね。
早熟な武蔵少年に武芸を教えたのは、たぶん父親の新免無二ではないかと思うんだ。その新免無二が今年(2014年)の大河ドラマの主人公、黒田官兵衛に仕官していたことが黒田家の資料でわかっているから、関ヶ原の戦いでは、親子で黒田軍に参戦していたと見るのが一般的だろうね。武蔵が数えで17歳の時だ。
じゃあ、関ヶ原の大舞台で親子揃って大活躍ってわけね。
それがねぇ、何の記録も残ってないんだ。せめて敵将の首ひとつでも挙げれば、恩賞も出るからどこかには記録として残るはずなんだけどね。
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