虚構の中の真実 時代劇のヒーローたち

遠山金四郎(前編)〜誰も知らなかった桜吹雪

つまり金さんは、水野忠邦のバックアップで順調に出世したってこと?


水野が老中になった翌年から景元の出世が始まるから、それが全くないとは言い切れないけど、その後の働きぶりを見ても景元が優秀な官僚だったことは明白で、景元の出世は実力と見るべきだろうね。むしろ、なぜ500石の弱小旗本であった景元の父が、長崎奉行のような要職に就けたのかが問題で、これに関しては、景晋が昌平坂学問所の第1回学問吟味で、旗本でトップの成績をとったことが発端だった。

へぇ〜、金さんのパパは頭が良かったのね。


この話にはちょっと裏があるんだ。この試験は昇進には関係ないという触れ込みだったから、誰も受験する者がいなくて、景晋は旗本代表として強制的に受験させられたらしい。一方の御家人代表が後に狂歌師として有名になる太田南畝(蜀山人)で、こちらはもの凄い秀才だった。しかし、旗本の方が御家人より成績が悪いというのでは格好がつかないから、1回目の試験は双方落第、2回目の試験で旗本は遠山、御家人は太田がトップということになった。

何だかキナ臭いわね〜。


景晋がダメだったわけじゃないよ。太田が優秀過ぎた。学問吟味は老中・松平定信による寛政の改革の一環で、身分や家柄に関係なく、成績優秀な者は登用せよというのが定信の方針だったから、景晋は順調に出世して、蝦夷地御用を経て目付になることができた。そして文化2年(1805)年、景晋最大のチャンスが訪れる。開国を迫るロシアのレザノフと話し合うため、幕府の全権大使として長崎に派遣されることになるんだ。奇しくも、その前年に長崎奉行所に赴任していたのが太田南畝だ。

っていうことは、幕府は試験トップのインテリコンビに外交を任せようと思ったのかしら?

11年も前の試験だからどうかわからないけど、景晋の場合蝦夷地、つまり北海道に赴任していた経験を買われたんだろうね。でも、結果的にはこれがうまくいった。景晋は毅然とした態度でロシアの要求をはねのけ、レザノフは帰国する。景晋はこの功績を認められて長崎奉行に抜擢されるわけ。

太田さんはどうなっちゃったの?


官僚としても優秀だったけど、旗本ではなかったし、秘かに狂歌を詠んで幕政を批判したりしていたから、要職に就くことはなかったんだ。役人としても文人としてもマイペースの人生を貫いて、56歳で死んだ。辞世の歌は「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」。

あははは。面白い人だったのね。


だから、いろんな意味で、父の景晋の方が人生を語るには面白い。ただ、この人はもともと遠山家の人ではなくて、跡継ぎのいなかった遠山家に永井家から養子に入った人なんだ。ところが、景元が生まれた直後に、跡継ぎができなかったはずの養父に景善という子供ができちゃったから、話がややこしくなった。困った景晋は景元の方が後に生まれたことにして、養父の子である景善を跡継ぎとして届けたんだな。そして、景元は10歳の時に、同い年だけど、実際には自分より後に生まれた景善の養子になる。

本当にややこしい話ね。じゃあ、金さんの誕生日は実際よりずっと後の日にちになっちゃたのね。

家庭の事情で不良になった?

そうなんだ。景元にしてみれば面白いはずがない。当主の実子なのに家督相続権は弟のような養父が持っている。そういう複雑な家庭事情が影響したのか、青年景元は屋敷を飛び出し、若い頃父の通称であった「金四郎」を名乗って、市井で放蕩生活を送ったと言われている。

それが「桜吹雪の金さん」の始まりかぁ〜。


その通り、と言いたいところだけど、当時の文献に景元が刺青を入れていたという記述は一切残っていないし、見たという噂すらない。フィクションとしての「遠山の金さん」が最初に登場するのは明治時代の歌舞伎『遠山桜天保日記』なんだけど、そこで金四郎が刺青を見せるのはお裁きの白洲ではなくて、喧嘩の仲裁の時。しかも、刺青の絵柄は手紙を咥えた女の生首なんだ。
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