虚構の中の真実 時代劇のヒーローたち

宮本武蔵〜遅れてきた兵法者

それにしても三十五って、変わった名前よね。



もちろんペンネームだよ。31歳の時は直木三十一、32歳の時は直木三十二だった。その後いろいろあって三十五で“打ち止め”にしたんだけど、本人は43歳で早世してしまった。その死を惜しんだ友人の菊池寛が創設したのが「直木賞」というわけ。

あははは。年齢をリアルタイムでそのまま名前にするなんて面白い人だったのね。

其の弐 本当に強かったのか

で、直木が昭和7年(1932)にNHKのラジオ番組でこんな事を言った。「武蔵という人は『五輪書』にしても絵画にしても剣客の中では最も多く事蹟が残っているのに、強さという点に関してははどれくらい強かったのかが全く判らない。確かに晩年は一流の人であったと言えるかもしれないが、若い頃は単に自己PRが上手かっただけではないのか」

ふ〜ん。直木さんは武蔵をあんまり評価しなかったっていう事?



要は、一流の剣客であることは認めるけど、巷間言われているようなナンバーワンという評価はできないということだ。上泉信綱とか、柳生宗厳(石舟斎)、宗矩父子とか、上には上がいるというわけ。『五輪書』にしたって生涯負けたことがないなんて吹聴するあたり、大した人物とは思えないし、宗矩の書いた『兵法家伝書』なんかに比べると哲学性に乏しいということだな。

結構ボロクソなのねぇ。



でも、最初からボロクソだったわけじゃないんだ。実は、直木の発言に菊池寛が真っ向から反論したことで話が大きくなってしまったんだ。菊池の反論はこうだ。「かの伊藤一刀斎ですら生涯に30数回しか試合をしていない。それに比べて60数回の武蔵が弱いというのはおかしい」

ははぁ、質より量っていう考え方ね。



これに直木がまた反論して「対戦相手が多いと言っても有名どころは一人もいないし、二刀流というのも邪道だ。第一、それほどの剣客なら細川家の客分程度で終わるはずがないだろう。弟子だって大した奴はいない」という風に、だんだんエスカレートしていった。

あははは。きっと一番迷惑だったのはお墓の中の武蔵さんよねぇ。そこまで言われる筋合いじゃないもんねぇ。


結局、この論争が飛び火して、読売新聞の座談会で、そもそも何の関係も無かった吉川英治が武蔵を擁護したものだから、さらにややこしくなった。直木に言わせれば「オレは色々と研究して資料も引っ張り出して論じているのに、キミは何の根拠もなく武蔵を偉いと言う。偉いというならその証拠を示せ」というわけだ。

なんだか子供の喧嘩みたいね。結局どうなったの?



実は直木の指摘通り、吉川は武蔵について世間一般の知識程度しか持ち合わせていなかった。ここで引き下がったら名折れだということで、吉川が猛烈に武蔵を研究し始める。「直木め、今に見ていろ」という心境だったようだけど、その結果を出す前に直木が死んでしまった。

論争が中途半端な形で終わっちゃったのね。


理想の青年像

しかし、直木が死んでも吉川はそれを“亡友の毒舌の恩”として、新聞小説という形で新たな武蔵像を産み出した。内容は剣の道を極めるために、真剣勝負を繰り返す中で、葛藤しながらも、自己の精神性を高めていく青年の物語。従って、関ヶ原の合戦から巌流島までの武蔵の修業時代、10代から20代後半までの青春を描いている。これがあまりによく出来ていたから、小説の武蔵は実像を超えて、禁欲的で一心に道を究めようとする「理想的な青年像」になってしまった。

昭和10年代の理想的な青年って、そういう感じだったのかな。全然イメージ沸かないけど。


日清、日露戦争に勝った日本は一気に軍備を拡張して国力を増やしていった。昭和3年の満州事変で中国に満州国が建国されると、日本と欧米列強の対立はだんだん避けられない状況になっていく。昭和10年代というのはそういう時代だよ。若者が徴兵されて戦争に行くことが避けられない時代でもあったんだ。
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