虚構の中の真実 時代劇のヒーローたち

遠山金四郎(前編)〜誰も知らなかった桜吹雪

だけど金さんは、お奉行なのに刺青入れてるっていうところが、面白いんじゃないの?

それはその通りなんだけど、ここでは映画やテレビの世界の金さんと、実在の遠山金四郎、正しく言えば遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)を分けて考える必要がある。遠山景元は、歴史的に見れば北町奉行時代、水野忠邦の改革をほぼ忠実に実行した人であり、水野失脚後も南町奉行に選任され、隠居して家督を譲るまで町奉行としての職責を全うした人だ。

町奉行って、実際どんな仕事をしてたの?


現代に置き換えるなら、都知事と警視総監と消防総監と最高裁・地裁判事を兼任するようなものだ。

何それ?メチャクチャ忙しそう…。


実際忙しかったらしいよ。過労死した町奉行も結構いたらしいからね。町奉行には北町と南町の2つがあって、ひと月交替で業務を行う。江戸幕府の奉行は寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三奉行で、簡単に言えば寺社奉行はその名の通り寺社と僧侶を管轄。勘定奉行は経済全般。町奉行は「士農工商」のうち「農工商」に関する司法、立法、行政、警察、消防、その他すべての案件を管轄するわけ。

何だか仕事の分担比率がおかしいような…。奉行ってどういう人が選ばれるの?

旗本から選ばれる。江戸の役人制度については、これからも度々触れるけど、簡単に説明しておこう。政務のほぼすべてを取り仕切るのが老中。譜代大名から4〜5人が選ばれて、月替わりで交代するのが通常だけど、幕府が危機的状況にある場合は、大老が専任する。大名や朝廷の監視役が大目付で、旗本や御家人の監視は目付。目付を統括するのが若年寄だ。老中、目付、三奉行が集まって政策を協議したり、大名や旗本間の訴訟を受け持つのが評定所というわけだ。

う〜ん、そう言われてもよくわからない…。


まぁ、今の政治システムとは全然違うからね。でも、町奉行というのが今の閣僚クラスだと言うことはわかるだろ。要職という意味では若年寄や勘定奉行より上だ。景元はそこまで登りつめた旗本ということだから、エリート中のエリートなわけ。実際、天保6年(1835)の小普請奉行に始まって、作事奉行、勘定奉行、天保11年(1840)に北町奉行と、すこぶる順調に出世している。

つまり、金さんは優秀だったっていうこと? それとも、親のコネかなんかがあったのかな?

鋭いところを突くね。実は景元は歴代町奉行の中でも特に家禄の少ない、500石の弱小旗本出身なんだ。普通なら家格が合わないと言うことで選ばれないところだけど、なぜか水野忠邦が抜擢する。これには、景元が官僚として極めて優秀であったこともあるだろうけど、景元の父、景晋(かげくに)が長崎奉行だったことも関係していると思うんだ。

え〜、ますますわかんない。


金さんのパパは、かなり大物?

幕府が「異国船打払令」を発令する転換点になったフェートン号事件で、責任をとって切腹した松平康英の後任が土屋廉直、さらにその後任が遠山景晋だ。景晋は幕府が国防面でかなり神経質になっていた時期に長崎奉行を務め上げ、最終的には勘定奉行にまで登りつめた。

お父さんは、結構大物だったのね。


うん。当時の長崎奉行は遠国奉行のトップであり、外交官でもある。フェートン号のように長崎港で事件が起こった場合、近隣の佐賀藩や唐津藩と連携、指揮する権限も持っていたんだけど、景元が長崎に赴任した文化9年(1812)に唐津藩の藩主になったのが水野忠邦だ。

はは〜ん、ということは…。


公的な挨拶なんかで、互いに良く知っていた可能性が高いということ。ひいては水野忠邦が、長崎奉行の息子である景元と面識があったと考えても、特に不自然ではない…。
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