虚構の中の真実 時代劇のヒーローたち

大岡忠相〜素顔の見えない名奉行

昔も今も、男の人は美人に弱いのね。

他にもいろいろあるけど、忠相にとって最も大きなテーマは米価と物価の安定だった。物価の安定、引いては経済の安定こそ治安維持の要だからね。社会不安、生活不安が少なければ、その分犯罪や暴動も減るということだ。

また経済の話かぁ。金さんにしても大岡さんにしても、町奉行って、実際は経済官僚みたいな仕事だったのね。

キミが嫌がるから、あまり詳しい話はしないけど、忠相が町奉行を務めた約20年のうち、最も腐心したのが市場経済と金融なんだ。物価安定のために問屋を組織化したり、米問屋の再編を促したり、ありとあらゆる対策を講じるんだけど、なかなかうまくいかない。忠相は試行錯誤しているうちに、米を始めとして物資が集中する上方と、消費主体の江戸という東西の経済格差に、江戸経済の弱点を見いだすんだな。

ただ一人の男

東西の経済格差って、どういうこと?


物流が発達すると、商品の流通も増える。すると、貨幣経済が発達するから貨幣の供給量を増やす必要が出てくる。この点に着目した幕府は、綱吉の時代から貨幣の改鋳を繰り返して、財政赤字を補填してきた。しかし、これは同時に貨幣の信用不安を生んでインフレを助長する“両刃の刃”でもある。

はぁ〜。わかるようなわからないような…。


しかも大坂は銀本位、江戸は金本位だったから、金と銀のレートがもろに両都市の経済を直撃するわけ。銀が高いと江戸への商品流通が減って物価も上昇する。当時、経済や金融の主体は大坂にあったから、どうしても銀の方が有利になって、忠相の悲願である江戸の経済復興が妨げられる。

金と銀とお米と、どれが一番価値があるわけ? ああ、もう頭の中がぐちゃぐちゃ…。

まぁ、無理に理解しろとは言わないよ。忠相はこの金銀レートを是正するために何度か両替商、つまり今の銀行を指導するんだけど、両替商達は命令には従わないどころか、対抗策として勝手に休業、金融市場を混乱させてしまう。

士農工商って、一番身分は低いはずなのに、その頃から商人の方が強くなっていたのね。

それで両替商を奉行所に呼び出すんだけど、何かと理由をつけて来ないばかりか、代わりに手代に顔を出させる。改革が始まってはや19年。その仕上げとして忠相も腹をくくった。不届き千万ということで、手代を全員牢に入れたんだ。

うわ〜、今度は全面戦争だ。


手代がいないと両替商も仕事にならないから、またまた休業で対抗するんだけど、忠相も引かない。そしてにらみ合いが2カ月続いた結果、この騒動は意外な形で幕を閉じる。

どっちが勝ったの?


元文元年(1736)8月、突然、忠相の寺社奉行への出世が決まったから、必然的に幕引きとなった、手代は店に返され、忠相は20年続けた町奉行から引退したというわけ。たぶん背後には両替商達の圧力があったと思うよ。でも、幕府としても功労者である忠相の顔は潰せないから、本来なら大名しかなれない寺社奉行への、異例の栄転を決めたんじゃないかな。

それにしても改革の先頭を走り続けて20年、長かったでしょうね。

寛延元年(1748)、忠相は正式に1万石の大名になった。町奉行から大名になった例は、265年間を通じて忠相しかいない。それだけでも、いかに忠相がスーパー官僚だったかわかるだろ。しかし、忠相が優れていたのはその能力だけじゃない。激務のために在職中の死者が14人に及ぶという町奉行職を、キミが言うように20年も走り続けたわけだから、恐ろしくタフな男だったということだ。しかも75歳まで生きたからね。

当時の常識から考えたら長生きよね。


忠相が吉宗の言わば“分身”として改革を実践できたのは、部下が手足となって動いてくれたからだ。特に与力や同心のフォローがなかったら、享保の改革は名前だけで終わっただろう。その辺に、忠相の人格というものが何となく偲ばれるだろ。そして、その人格を作ったのは、たぶん不運を味わい尽くした青年時代じゃないかと思うんだ。

当たってるかも。でも、素顔の大岡さんはどんな人だったのかな?


残念ながら忠相の人となりを伝える資料は全く残っていない。ただ一つ、スーパー官僚の“人間らしい”側面が見られるのは、忠相が“痔”で3日間公務を休んだという記録だけなんだな…。
<おわり>