虚構の中の真実 時代劇のヒーローたち

大岡忠相〜素顔の見えない名奉行

でも、苦労した分、人より早く出世できたんだから良かったじゃない。

ところが、忠相の不運が終わったわけではなかった。忠相は一男一女に恵まれていたんだけど、二人とも早世、目付に昇進した年に妻の珠荘院も亡くなった。出世と引き替えに、私生活では恵まれなかったんだ。

可哀想。でも、その辛さを乗り越えるために仕事に没頭したのかも…。

ただ、私生活の不幸はそこまでで、忠相はすぐ再婚し、新たに二男二女をもうけた。そして宝永6年(1709)に綱吉が死んでも、忠相はトップ交代による人事異動を免れ、正徳2年(1712)には伊勢神宮のお膝元である山田奉行に取り立てられるんだ。

異例の大抜擢

地方に行って、いよいよキャリア官僚の階段を登り始めるのね。


実父の忠高だって奈良奉行止まりだからね。その点忠相はまだ30代だ。山田奉行のような遠国奉行は通常2人の交代制だから、忠相は江戸と山田を1年ごとに4年間往復していたことになる。さて、問題はこの間、どういった経緯で吉宗が忠相の存在を知ったのかということだ。

紀州って和歌山でしょ。伊勢神宮とは近いから、吉宗さんが大岡さんを知ったのは大岡さんが山田奉行の時って考えた方が自然よね。

うん。それを示唆するいくつかのエピソードもあるんだけど、やっぱりスピード出世した若手の超エリートとして、忠相は全国的に注目されていたんじゃないかな。吉宗の場合、当時自分が将軍になるなんて考えてもいなかっただろうから、その頃に忠相の登用を計画していたとは考えにくい。

あら、どうして? 吉宗さんは将軍の有力候補じゃなかったの?


将軍としては最終候補である御三家の、しかも庶子だからね。紀州藩主になった理由だって、偶然二人の兄が同じ年に病死したからなんだ。吉宗が将軍になれたのは偶然に偶然が重なった結果で、ほとんど奇跡のようなものだよ。

でも、結果的にはそれが幕府にとって幸運だったってことよね。


で、その吉宗が、江戸に戻って御普請奉行を勤めていた忠相をいきなり南町奉行に抜擢した。40歳で事務方のトップというのは、前代未聞の人事だ。幕閣の衝撃は大きかったと思うよ。

吉宗さんにも、何か狙いがあったんじゃない?


遠山景元もそうだったけど、ひとつは思い切った改革を進めるには、縁故やしがらみの無い人物が必要になる。そして凄まじい激務が予想されるから、それに耐えうる若手の方がいいという判断だろうね。そしてもうひとつは、これから官僚制度にもどんどんメスを入れるぞ、という改革のシンボルとしての役割ね。

確かに、思い切った若手登用で新政権をアピールするのは今の時代も同じよね。

其の四 享保の改革

しかし、忠相はそんな“広告塔”で満足するような男ではなかった。結果を見れば、享保の改革の中身を立案し、具体化したのは殆ど忠相だったからね。

享保の改革かぁ…。歴史の授業では習ったけど、とりあえず簡単に説明してよ。

素直に忘れたって言いなさいよ。まぁ、基本的には財政再建なんだけど、まずは自ら質素な木綿の着物を着て倹約をアピールし、「美人嫌い」を標榜して大奥をリストラ、参勤交代での各藩の江戸在府期間を半減して、その代わりに献上米を徴収、年貢の割合を50%に引き上げると共に新田を開発して、税収の確保を図った。
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