虚構の中の真実 時代劇のヒーローたち

遠山金四郎(後編)〜誰も知らなかった桜吹雪

其の参 生き残る者

壮絶なハンガーストライキ

今まで聞いた話では、矢部さんに問題はないように思えるけど、鳥居さんは矢部さんの何をつかんだの?

矢部は町奉行に就任した後、この問題を敢えて蒸し返さなかったんだよ。町奉行になるという目的は達したから、今さら飢饉対策の功労者である筒井や仁杉を責めなくても良いと考えたのか、或いは他に事情があったのか、今となっては良くわからない。事実、仁杉が買い付け米を着服したとか、不正使用したという確証はないんだ。ただ、事を円滑に進めるために、特定の商人を使ったり、飲食などの経費を認めた形跡はある。でもそれは、当時としては常識的な範囲だった。だから、この件は疑惑アリという内部告発だけで終わるはずだった。

そうか、わかった。何かのきっかけでそれが表沙汰になっちゃったのね。


そうなんだ。その後仁杉配下の同心が同僚の息子を斬殺するという事件を起こす。これは、不正の噂を巡る不幸なトラブルだった。

「不正の噂が出るということは、アイツが何かやったに違いない」「いや、アイツだ」みたいな話ね。

これが矢部の命取りになった。鳥居の暗躍で、町奉行就任前の矢部の内部調査は越権行為だったとか、その後に処断しなかったのは職務怠慢だとか、斬殺事件をきっかけに、ほとんど言いがかりに近い形で解任されることになる。それだけじゃない。矢部は桑名藩に幽閉され、お家は断絶となった。

ちょっと酷すぎない? 別に矢部さんが何かしたわけじゃないんでしょ。


矢部は絶食して抵抗した挙げ句、54歳で憤死したと伝えられている。まぁ、普通に病死したという説もあるけどね。ハンガーストライキで死ぬ方が、矢部らしいということなのかな。ただ、矢部が出世のために使った切り札が鳥居によって逆に使われたのは皮肉な話だね。で、次の南町奉行は予定通り“妖怪”鳥居ということになった。

どうして“妖怪”なの? 顔が気色悪かったとか?


名前の“耀蔵”の“よう”と、官位である“甲斐守”の“かい”を合わせたあだ名だね。他にも“蝮(まむし)の耀蔵”なんて呼ばれてメチャクチャ嫌われてた。

あはは。ひど〜い。どうしてそんなに嫌われたの?


この人は林家という朱子学の宗家に生まれたからね。洋学は排斥すべきと考えていた。だから開国派の洋学者を罰した「蛮社の獄」では、渡辺崋山、高野長英といった優秀な学者を死に至らしめたし、砲術の高島秋帆に無実の罪をきせている。加えて市中の取り締まりも、おとり捜査まで使う情け容赦のないやり方だったからね。有る意味、凄く優秀な人だったと思うけど、庶民の人気を得るようなキャラクターではなかった。

鳥居さんと金さんの関係はどうだったの?


遠山は矢部が解任された直後、庶民に向けて直接語りかけるパフォーマンスを行っている。内容は天保の改革の趣旨をやんわりと説いたようなもので、これといって特徴のあるものではないけど、庶民にとって、町奉行から直接話を聞くという機会は滅多にないから、話の内容に関係なく、一様に感激したらしい。その後、親孝行な町人に褒美を与えたりして、厳しい弾圧の懐柔策ともとれるやり方で、次第に庶民のハートを掴んでいくんだな。

鳥居さんは面白くなかったでしょうね。「アイツ、町人の前で格好ばかりつけやがって」なんて思ったんじゃない?

遠山景元が、後に「名奉行」となって庶民のヒーローになった背景には、さっき話したような巧みなパフォーマンスもあるけど、鳥居の圧倒的な不人気という要因が大きい。南の鳥居が嫌われれば嫌われるほど、北の遠山の人気が上がるというわけだ。しかし、遠山が特に体を張って庶民のために抵抗したという事実はない。正面切って水野に逆らうことはしなかったけど、行き過ぎた弾圧や規制には異を唱え、場合によっては意図的に実行を遅らせた。いわば、ささやかな抵抗だけど、そこが遠山の美点でもあり、限界でもあった。

でも、水野さんにしてみれば、職務に忠実な鳥居さんの方がカワイイと思うんじゃないの?

なかなか鋭いね。その通り。早急に事を進めたいのに、いちいち反論する遠山が煙たくなってきた水野は、鳥居と共謀して、遠山を大目付に任命する。大目付というのは町奉行より役職は上だけど、一種の名誉職で、官僚としては実務権限を奪われたも同然だった。
<6ページに続く>