虚構の中の真実 時代劇のヒーローたち

長谷川平蔵〜人を信じ、人を活かす

其の弐 “鬼平”の誕生

考えてみると、テレビの『鬼平』が親子2代で同じ役で、実際の平蔵さんも親子で同じ役職だったっていうのは面白いわね。

大名や大名クラスの旗本と違って、長谷川家のように家禄400石の旗本では、親が奉行だったから子も必ず奉行になれるというわけではない。親の財産で遊んでいた平蔵が、家督を継いでから武官のトップである御先手弓頭まで出世できたのは、本人が優秀であったこともあるけど、当時、老中首座であった田沼意次の引き立てもあったんじゃないかな。

ふ〜ん。だけど、金さんが500石で、平蔵さんはもっと低い400石でしょ。それでも財産とか遊ぶお金があったの?

キミにしてはなかなか鋭い質問だね。その謎については、父の宣雄が倹約家で蓄財があったことと、築地から1200坪もの本所の広大な屋敷に移ったことで、その土地を町人に貸して家賃収入を得ていたのではないかという瀧川政次郎氏の説が有力だね。

えっ、平蔵さんは大家さんでもあったわけ? それもイメージ狂うなぁ…。

まぁ、いずれにしても放蕩生活は一時期の話で、役職を得てからの平蔵は持ち前の度胸の良さと押しの強さで武官トップの御先手弓頭になった。先手頭っていうのは、今で言うなら機動隊の隊長みたいなもんだな。当時の警察官、つまり同心の手に負えないような強力な武力を持った犯罪者に対して、弓や鉄砲を持って出動する先鋒部隊だ。

同心は弓とか鉄砲を持っちゃいけなかったの?


同心は犯人を生きたまま捕まえて裁判に送るのが仕事だから、基本的に非武装なんだ。平蔵の代名詞にもなった火付盗賊改は、先手頭に付随する臨時の役職で、放火犯とか押し込み強盗のような重罪専門の特別警察と考えればいい。先手頭になった翌年、天明7年(1787)に平蔵は火付盗賊改方を命じられる。平蔵42歳の時だ。

江戸時代に火事が凄く多かったっていう話は前にも聞いたけど、強盗も多かったの?

天明6年に田沼意次が失脚するんだけど、その原因のひとつが、天明2年から8年にかけての「天明の飢饉」に対する失政だ。飢えた農民が一揆や打ちこわしに走ったり、都市部に流れ込んできたから無宿人が増え、江戸の治安が悪化していた。

田沼さんがいなくなったことは、平蔵さんにはマイナスだったんじゃないの?

結果的にはそうかもしれないね。平蔵にしてみれば、自由度の高い田沼の方がやりやすかったに違いない。加えて、田沼政治を根本から否定した老中・松平定信が平蔵を快く思っていなかったことは自伝の『宇下人言』を見ても明らかだ。しかし、平蔵は持ち前のしたたかさで「寛政の改革」をサポートしていくんだ。

「寛政の改革」って、前回の「天保の改革」のお手本になったんでしょ。っていうことは、やっぱり倹約とか思想弾圧とか、そういうこと?

まぁ、そういうことなんだけど、それを説明していると前回みたいに長くなるからそれは個々に調べていただくとして、まずは火盗改としての平蔵の活躍を話しておかないと、時代劇ファンが怒るだろ。

活躍っていうことは、やっぱりテレビの平蔵さんみたいに悪党をバッタバッタとなで斬りにしてたわけ?

神道徳次郎と葵小僧

そんなわけないだろ。いくら江戸時代でも捕まえて裁判にかけるのが原則だ。但し、火盗改は捜査官としては町奉行所と拮抗する権限を持っていたけど、裁判権はほとんど無かった。だから、かなり強引な操作で容疑者を捕まえると、過酷な拷問で自白させるというのが常道だった。江戸時代は自白が全てだったからね。

それじゃあ、間違って捕まえられて、無理矢理自白させられちゃうことだってあり得るじゃないの。

確かに、検挙率は高くても、誤認捜査や誤認逮捕が多かった。だから拷問や強引な捜査に否定的な町奉行所は、火盗改の「やり過ぎ」をひどく嫌っていたらしい。
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